• 腸内環境-温熱-食事療法-腸活-温活に取り組み30年以上 グリーンポプリ株式会社代表後藤洋のブログ 理想的な腸内フローラを目指して実践を続ける

グリーンポプリのなりたち01

はじめに

はじめまして、グリーンポプリ株式会社代表の後藤洋(ごとうひろし)と申します。弊社は今は亡き父(後藤 邦汎)が、1986年に創業いたしました健康食品と健康機器・治療器販売の会社です。弊社は健康食品や健康機器に対して、熱い思いを持って取り組んでいます。代表である私は日々腸内環境の改善や温熱など、自らの体で実践し、新たな技術を模索しています。そしてそこで得た経験を新たな商品にフィードバックしたいと考えます。なぜそのような情熱がうまれるのか?まず第一に弊社は創業者が壮絶な闘病体験をもとに創業しているからです。それに私にしても父は幾度も難病を患っているので「何とか父の病気を治したい!そのために良い方法は無いか?」という思いがありました。そして私自身も虚弱でしたので、自分の体を立て直すための生きる術でした。そして健康食品や健康機器のおかげで現在の自分があり私の家族があります。そして健康食品や健康機器を使用して良くなられた沢山のお客様方とのご縁。沖縄から北海道まで顔は見えなくても、笑顔が見えるようです。そのようなお客様に支えられ、そして笑顔を広げるために37年間、今日も真摯に健康と向き合っています。

グリーンポプリ株式会社 代表取締役 後藤 洋

4度のがん体験と病気のデパート

父はトータルで肺がんを2回、胃がん、腎盂がんをそれぞれ1回、合計4回のがんを患いました。3回のがんに関しては手術、抗がん剤、放射線など病院の3大治療を一切行わずに自力で克服しました。残念ながら4回目のがんで力尽きますが、それでも3大治療を行わずに自宅において全力で闘い抜きました。その他にも失明(片目)やCOPD(肺気胸)、リウマチなど病が尽きることはありませんでした。自ら「病気のデパートだった。」と語るように、人生を通して闘病続きだったといっても過言ではありません。ただそのような境遇の中でも、父の生き抜くパワーには卓越したものがあり、幾度にもわたり大波を乗り越えた力強さには、今思い返してみても強く胸が打たれます。

病気を治す本質とは

2013年 リウマチとがんを患い歩行が困難な中、足裏刺激も兼ねて裸足で歩行訓練を行う

父は、最期まで自宅で過ごしました。亡くなる3日前のことです。ベッドで寝たきりだった父から、「こんなに足腰が弱っていたら治っても歩けないからウォーキングマシーンを買ってきてくれないか。」とお願いされました。「ああ、わかったよ!」。見るからにそのような状態ではないことは明らかであり、私は涙をこらえるのに必死でした。その時、なぜ父があらゆる難病を克服することができたのか、その本質が理解できました。そしてその力は強烈に私の心に教えとして深く刻まれているのです。

父の生命力の源

乳児期満州にて

その力強さの根源は父の生い立ちにあります。父は満州生まれで超早産のため超未熟児でした。お医者さんからは「3か月もたないでしょう。」と言われたそうです。

過酷を極めた満州からの引き揚げ

 6歳のときには、満州(ハルピン)からの引き揚げを経験しています。真冬にはマイナス30℃に達する極寒の地です。引き揚げの途中食料は皆無であり、食べられるものといえば野草や山菜、樹木の若芽と根、バッタやイナゴ、サナギで、最高のご馳走は蛇、蛙、蟹、魚、貝だったと後述しています。父の父(祖父)の家系は代々漢方薬に詳しい家系でした。父は超虚弱で(私と同じく)喘息もちでしたが、祖父はみかんの木の樹皮やエゾウコギの樹皮を煎じて飲ませてくれたそうです。また極寒の地なので凍傷で脚が腐ってしまう人もいたといいます。父も凍傷になり脚にはウジ虫がわいていたのですが、それすら「栄養が豊富なんだよ。」といわれ栄養源にしたそうです。このような境遇の下、父は「咳の時にはこの植物」、「下痢の時にはこの植物」というように、自然と生薬の知識が豊富になったということです。

ウコギの葉

日本に引き揚げてから

日本に帰ると現実は中国よりも厳しかったといいます。故郷の人たちも極貧にあえいでおり、他人の面倒を見る余裕などなかったのです。そのため引揚者たちは山野を切り開き多くの開拓村をつくりました。幸い温暖な鹿児島の沿岸部だったので、自然に恵まれていました。山では山菜、木の実、きのこをとり、川では魚やエビ、カニ、タニシなどをとっていました。家畜も飼っていました。当時は小学一年生とはいっても重要な労働力でした。

自然災害に見舞われる

 そのような生活もようやく軌道に乗った頃、不運にも大地震と台風が襲いました。河口近くだったためせっかく開墾した畑が海水に浸かりました。さすがにガックリときたのか、祖父は目に見えて気力がなくなり、”再び立ち上がろう”というあの強い姿はみられなかったそうです。それどころか大きな咳をするようになりました。引き揚げからはじまり重労働、栄養失調の連鎖で祖父の体はボロボロでした。祖父の病気を治すためには栄養が必要でした。祖父の病気を治すのに必死な父はウナギ、ドジョウ、シジミ、カニ、自然薯、ウコン、ハトムギを採取する名人になっていました。そのおかげで祖父の病状は回復していったのです。

数々の病気を乗り越えた開拓魂

温泉のイメージ

父自身もアレルギー、喘息で虚弱な上に、栄養をつけないといけない時期に極度の栄養失調で体が育ちませんでした。このことは生涯にわたって父の体に病気の連鎖をもたらしました。でも近くにあった温泉に入り体を温めていると症状がよくなりました。温熱療法との出逢いです。そして鹿児島は民間療法が盛んな地域で、各家庭にビワの樹があって温灸や温シップを行なっていました。ビワ茶、ウコン、黒酢、ニンニク卵黄は家庭薬でした。このことが父の病気の治し方の基本となったのです。父は42歳の時に肺がんを宣告されました。あの引き揚げを乗り越えてきたんだ!。こんなことで死んでたまるか!。「幾度もの難病を乗り越えらえられたのは、≪開拓魂≫のおかげだ。」と父はいいます。