• 腸内環境-温熱-食事療法-腸活-温活に取り組み30年以上 グリーンポプリ株式会社代表後藤洋のブログ 理想的な腸内フローラを目指して実践を続ける

代表プロフィール 後藤 洋

父のガン闘病中に足ツボケアを行う私
2014年父のガン闘病中に足ツボケアを行う私

アレルギーのフルコースと虚弱体質

私は幼少時よりアトピー性皮膚炎、小児喘息、蓄膿症、中耳炎、外耳炎等、アレルギー症状のフルコース、虚弱体質に悩まされました。
プールに入ったら外耳炎だ、中耳炎だとその度に病院に行っていました。
幼少時には本当によく病院に通っていました。母の自転車の荷台の上に乗って連れていかれたり、電車に乗って遥々病院に行ったり。
その度に大きな注射を打たれるんですね。その度に泣いていました。
特に嫌だったのが鼻へ打つ注射。物凄く大きな注射が目の前に近づいてくる恐怖は今でも忘れません。おそらく自分が小さかったのと恐怖からそう見えたのでしょうけれど、化け物のように大きい注射だったように記憶しています。
夜中にはよく背中が「痒い痒い」と言って泣いて、母に背中を掻いてもらっていたことを覚えています。
両親もそれがとてもストレスだったそうです。

意を決して玄米菜食を始める

両親はもうこのような生活は続けられない。ノイローゼになると思ったそうです。それでお茶の水クリニックに行き森下博士のカウンセリングを受け、玄米菜食を始めたのです。

昔から健康食品や治療器が身近にあった

ですから私の家には自然食品や、健康食品や治療器だらけでした。
私のお菓子なんて梅丹ドロップ。
ヘソ温灸器なども忘れないですね。私はしょっちゅうお腹を壊しておりましたので、父にヘソ温灸器をやられていました。金属製のケースの中に火のついた炭みたいなものを納めてお臍のところにベルトで巻き付けるのですが、父に火のついた炭をお腹の上に落とされたんですよね。あと金属製のケースも熱かった。ヘソ温灸器は熱い思いでしかありません。ただ腹痛は治ったんですよね。

玄米菜食が嫌いだった

特に嫌だったのは玄米菜食。当時小学校にお弁当を持っていたのですが、私の弁当が恥ずかしかった。弁当箱を開けると黄色いご飯が現れ、表面をべったりと黒すりゴマが覆っている。しかも真ん中に梅干し。そして自然食品センターというところで購入した、無着色のウインナーとグルテンミート。それに緑の野菜。友達の弁当には、真っ赤っかでタコのように加工したウインナーが入っているわけですよ。「あー、なんておいしそうなんだろう。それに比べて僕の弁当はなんて地味でまずそうなんだ。」と思っていました。
それに子供の頃って玄米を食べている人なんて私だけだったので、友達が悪気もなく「後藤のご飯って何で黄色いの?」なんて本気で聞いてくるんです。これに対して説明するのが嫌だったな。

そのおかげでアトピーも完治

結局この努力があって治ったわけなので両親に感謝なのですが、当時を思い出すとこんな感じです。
両親の努力の甲斐あって、もう高校生のころには完治しました。

親父が末期の肺がんに

このように私自身の病気は治ったのですが、父が45歳の時に余命3ヶ月の末期癌に冒されたのです。私と同じく完全な玄米菜食を行なっており、私は治り父はがんになったのです。父は当時東証1部上場会社のサラリーマンでした。会社は東京で住まいは埼玉県の大宮市でした。父が帰宅するのは毎日午前様で、真面目な父は外食もせずに家に帰ってから玄米菜食を食べていたのです。皆さんならばこれってどう思います?玄米菜食を食べていたとしても0時過ぎです。後日母は「あんなに遅い時間にご飯を食べて体に良いわけはないと思っていた。体に良くないにしても夕方に外食したほうがまだ体によいのではないかと思っていた。」と言っていました。私も正にその通りだと思いました。「玄米菜食をしていれば病気にならない。」というのは幻想で、もっと食事のスタイルや、ストレスや、睡眠時間や、運動などもっと大きな要因から病気は成り立っているのではないかと思ったのです。

未分化小細胞がん-病院から見放された

父の肺がんは未分化小細胞がんといって、当時は手術や抗がん剤、放射線で対処可能ながんではありませんでした。そのため病院からは「何をやってもいいよ。」と見放されました。後年父は私に「あの時見放されていたから運がよかったんだよ。」と言っていました。そのおかげで自分で治す肝が据わったと。

自力でがんを完治させた

玄米菜食だけではガンを防ぎきることができなかった。そこで父は健康機器や健康食品そして運動を加えて自力でがんを完治させたのです。この時に主に行っていたのが、今でいうところの腸内環境の改善であり、温熱でした。

当時の腸内環境の改善とは?

腸内環境の改善とは言いましても、当時「腸内環境」なんて誰も言っていない時代でしたし、研究も進んでいませんでした。父はよく「宿便出し」と言っていましたね。とにかく酵素やオリゴ糖、そして正確には覚えていないもののビフィズス菌?を沢山飲んで、ウンチを出していました。本人はバケツ1杯なんて言っていましたが、「本当かよ!」といった感じ。まあ大量に出たことだけは伝わってきます。とにかく私も父からことあるごとに「便を溜め込んではいけない。」と、口を酸っぱくして言われておりました。当時の腸内環境改善というのは、大体このようなイメージです。

当時の温熱とは?

当時の「温熱」というのは、話で聞いているととても過激なものだったようです。いつも「辛かった。」と聞いているので。今はないのですが当時、お茶の水に治療院があったそうなんです。そこに寝て入る遠赤外線サウナらしきものがあったらしいんです(私は現物を見たことがないので)。先生が超スパルタだったらしいんです。毎日その中に無理やり入れられて、めちゃくちゃ発汗させられたらしいんです。これも本当か嘘かわかりませんが、バケツ1杯ほども汗が出たということです。とにかく辛くてもスパルタ先生だったので、頑張ったそうなんですね。

マラソンを始めた

父はそれまで企業のモウレツ社員だったので、朝から晩まで仕事をしていたのです。だから運動なんてしていません。がんになってから「走ろう会かな?」ランニングクラブに入って、マラソンを始めました。そしてマラソン大会なんかに出ていました。そんな感じでがんを克服してしまったんですね。

グリーンポプリの創業

がんを克服したのち、自然食品の会社で2年ほど修行をつみ、1986年7月にグリーンポプリ株式会社を立ち上げました。

後藤 洋 略歴

  • 早稲田大学社会科学部卒業
  • 東京農業大学短期大学部栄養学科卒業 栄養士
  • 日本中医学院(現廃校)